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悲田院〔京都鴨川の西に在り、京中の病者孤兒を收容して施養する所〕の尭蓮上人〔茲に記してある外、傳不詳〕は、俗姓は三浦のなにがしとかや、雙なき〔ならびない〕武者なり。故郷の人の來りて物がたりすとて、「吾妻人こそいひつることは頼まるれ。都の人は言受け〔言承、承諾〕のみよくて、實なし。」といひしを、聖、「それはさこそ思すらめども、おのれは都に久しく住みて、馴れて見侍るに、人の心劣れりとは思ひ侍らず。なべて心やはらかに情あるゆゑに、人のいふほどの事、けやけく〔きつぱり、きはだち〕辭(いな)びがたく、よろづえ言ひはなたず、心弱くことうけしつ。僞(いつはり)せむとは思はねど、乏しくかなはぬ〔貧乏で深切心はあつても實行の出來ぬ〕人のみあれば、おのづから本意通らぬこと多かるべし。吾妻人は我がかたなれど、げには心の色なく、情おくれ、偏にすくよかなるものなれば、初めより否といひて止みぬ。賑ひ豐か〔富み足る〕なれば、人には頼まるゝぞかし。」とことわられ侍りしこそ、この聖、聲うちゆがみ〔言語が訛つて〕あら〳〵しくて、聖教(しゃうげう)のこまやかなる理、いと辨へずもやと思ひしに、この一言の後、心憎くなりて、多かる中に、寺をも住持せらるゝは、かく和ぎたるところありて、その益もあるにこそと覺え侍りし。
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心なしと見ゆる者も、よき一言はいふ者なり。ある荒夷〔東國邊の荒い田舍武士〕の恐ろしげなるが、傍(かたへ)〔傍の者〕にあひて、「御子はおはすや。」と問ひしに、「一人も持ち侍らず。」と答へしかば、「さては物のあはれ〔人情の機微〕は知り給はじ。情なき御心にぞものし〔こゝでは唯ありませうの意〕給ふらむと、いと恐ろし。子故にこそ、萬の哀れは思ひ知らるれ。」といひたりし、さもありぬべき事なり。恩愛(おんあい)の道ならでは、かゝるものの心に慈悲ありなむや。孝養(けうやう)の心なき者も、子持ちてこそ親の志は思ひ知るなれ。世をすてたる人のよろづにするすみ〔匹如身、人の一物をも手に持たぬを云ふ〕なるが、なべてほだし多かる人の、よろづに諂ひ、望み深きを見て、無下に思ひくたすは、僻事なり。その人の心になりて思へば、まことにかなしからむ〔いとほしい、最愛の〕親のため妻子(つまこ)のためには、恥をも忘れ、盜みをもしつべき事なり。されば盜人を縛(いまし)め、僻事をのみ罪せむよりは、世の人の飢ゑず寒からぬやうに、世をば行はまほしきなり。人恆の産なき時は恆の心なし〔孟子に「無2恆産1而有2恆心1者惟士爲レ能、若レ民則無2恆産1因無2恆心1」とある。恆産は日常の生業、生活す可き職業〕。人窮りて盜みす。世治らずして凍餒(とうだい)〔こゞえる事と饑うる事と〕の苦しみあらば、科(とが)のもの絶ゆべからず。人を苦しめ、法を犯さしめて、それを罪なはむこと、不便のわざなり。さていかゞして人を惠むべきとならば、上の奢り費すところを止め、民を撫で、農を勸めば、下に利あらむこと疑ひあるべからず。衣食世の常なる上に、ひがごとせむ人をぞ、まことの盜人とはいふべき。
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人の終焉〔臨終、死際〕の有樣のいみじかりし事など、人の語るを聞くに、たゞ、「靜かにして亂れず。」といはば心にくかるべきを、愚かなる人は、怪しく異なる相〔かたち、現象〕を語りつけ、いひし言(ことば)も擧止(ふるまひ)も、おのれが好む方に譽めなすこそ、その人の日ごろの本意にもあらずやと覺ゆれ。この大事は、權化〔權現と同じく、かりに神佛が此の世に人と化して衆生濟度をする、その化した者〕の人も定むべからず、博學の士もはかるべからず、おのれ違ふ所なくば〔自分の心術が正しくて道にはづれた所なくば〕、人の見聞くにはよるべからず。
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栂尾の上人〔釋高辨、明惠(或は明慧)上人といふ、北山の栂尾に居て華嚴宗中興の祖と仰がれた〕道を過ぎたまひけるに、河にて馬洗ふ男、「あし〳〵〔足を洗ふため足と云つたのを阿字と聞いた〕。」といひければ、上人たちとまりて、「あなたふとや。宿執(しゅくしふ)開發(かいほつ)の人〔前世で修めた功徳が現世で現れた人〕かな。阿字々々と唱ふるぞや。いかなる人の御馬ぞ。あまりにたふとく覺ゆるは。」と尋ね給ひければ、「府生殿〔六衞府等に屬する官、不生と上人が聞き間違へたのだ〕の御馬(おんま)に候。」と答へけり。「こはめでたきことかな。阿字本不生(あじほんふしゃう)〔眞言宗で阿字に不生不滅の原理があると觀ずる、夫が阿字本不生〕にこそあなれ。うれしき結縁(けちえん)をもしつるかな。」とて、感涙を拭はれけるとぞ。
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御隨身秦重躬(しげみ)、北面の下野入道信願を、「落馬の相ある人なり。よく〳〵愼み給へ。」といひけるを、いとまことしからず思ひけるに、信願馬より長じぬる一言、神の如し。」と人おもへり。さて、「いかなる相ぞ。」と人の問ひければ、「極めて桃尻〔鞍上で尻の落ちつかぬ事〕にて、沛艾(はいがい)〔馬逞しく躍り上る形容〕の馬を好みしかば、この相をおほせ侍りき。いつかは申し誤りたる。」とぞいひける。



