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建治弘安のころは、祭の日の放免(ほうべん)〔檢非違使廳の下部の名稱〕のつけものに、異樣なる紺の布四五端(たん)にて、馬をつくりて、尾髪(をがみ)には燈心をして、蜘蛛の網(い)かきたる水干〔水ばりせし絹の狩衣〕に附けて、歌の心などいひて渡りしこと、常に見及び侍りしなども、興ありてしたる心地にてこそ侍りしか。」と、老いたる道志〔明法道の者、檢非違使廳四番目の役になつた名稱〕どもの、今日(けふ)もかたりはべるなり。この頃は、つけもの年をおくりて、過差(くゎさ)ことの外になりて、萬の重きものを多くつけて、左右(さう)の袖を人にもたせて、みづからは鋒(ほこ)をだに持たず、息づき苦しむ有樣いと見ぐるし。
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竹谷〔山城醍醐の地名〕の乘願房〔そこに居りし淨土宗の法師〕、東二條院(とうにでうのゐん)〔後深草帝の皇后公子〕へ參られたりけるに、「亡者の追善には何事か勝利多き。」と尋ねさせ給ひければ、「光明眞言、寶篋印陀羅尼〔共に眞言宗の呪語〕。」と申されたりけるを、弟子ども、「いかにかくは申し給ひけるぞ。念佛に勝ること候まじとは、など申し給はぬぞ。」と申しければ、「わが宗なれば、さこそ申さまほしかりつれども、まさしく稱名(しゃうみゃう)を追福に修(しゅ)して巨益(こやく)あるべしと説ける經文を見及ばねば、何に見えたるぞと、重ねて問はせ給はば、いかゞ申さむとおもひて、本經(ほんぎゃう)のたしかなるにつきて、この眞言、陀羅尼をば申しつるなり。」とぞ申されける。
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田鶴(たづ)の大殿(おほいどの)〔九條基家、良經の子〕は、童名たづ君なり。「鶴を飼ひ給ひける故に。」と申すは僻事なり。
224
陰陽師有宗入道〔陰陽頭安位、有宗、有重の子〕、鎌倉より上りて、尋ねまうできたりしが、まづさし入りて、「この庭の徒らに廣き事、淺ましく、あるべからぬことなり。道を知るものは、植うる事をつとむ。細道ひとつ殘して、みな畠に作りたまへ。」と諫め侍りき。誠にすこしの地をも徒らに置かむことは益(やく)なきことなり。食ふ物、藥種などうゑおくべし。
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多久資(おほのひさすけ)〔多氏、音樂家の家〕が申しけるは、通憲入道〔藤原信西、平治亂に殺された。〕、舞の手のうちに興ある事どもを選びて、磯の禪師〔舞姫、讚岐國小磯から出た。〕といひける女に教へて、舞はせけり。白き水干に鞘卷(さうまき)(*原文ルビ「きうまき」)〔鍔なき短刀の一種〕をささせ、烏帽子をひき入れ〔かぶる〕たりければ、男舞とぞいひける。禪師がむすめ靜といひける、この藝をつげり。これ白拍子の根源なり。佛神(ぶっしん)の本縁〔由來〕をうたふ。その後源光行〔歌人、光末の子〕、おほくの事をつくれり。後鳥羽院の御作もあり。龜菊〔京都白拍子〕に教へさせ給ひけるとぞ。



