徒然草: 241-243

241
望月の圓(まどか)なる事は、暫くも住(ぢう)せず、やがて虧けぬ。心とゞめぬ人は、一夜の中(うち)に、さまで變る樣も見えぬにやあらむ。病のおもるも、住する隙なくして、死期(しご)すでに近し。されども、いまだ病急ならず、死に赴かざる程は、常住平生の念にならひて、生(しゃう)の中(うち)に多くの事を成じて後、しづかに道を修せむと思ふ程に、病をうけて死門に臨む時、所願一事も成ぜず、いふかひなくて、年月の懈怠(けだい)を悔いて、この度もしたち直りて、命を全くせば、夜を日につぎて、この事かの事怠らず成じてむと、願ひをおこすらめど、やがて、重りぬれば、われにもあらずとり亂して果てぬ。この類のみこそあらめ。この事まづ人々急ぎ心におくべし。所願を成じてのち、いとまありて道にむかはむとせば、所願盡くべからず。如幻(にょげん)の生の中に、何事をかなさむ。すべて所願皆妄想(まうざう)なり。所願心にきたらば、妄心迷亂すと知りて、一事をもなすべからず。直ちに萬事を放下して道に向ふとき、さはりなく、所作なくて、心身(しんじん)ながくしづかなり。
242
とこしなへに、違順(ゐじゅん)につかはるゝ事は、偏に苦樂の爲なり。樂といふは好み愛する事なり。これを求むる事止む時無し。樂欲(げうよく)するところ、一には名なり。名に二種あり。行跡(かうせき)と才藝とのほまれなり。二には色欲、三には味ひなり。萬の願ひ、この三には如かず。これ顛倒(てんだう)〔顛倒見或は顛倒の妄見と云ふ、此の世の無常を常と誤り、苦を樂と、無我を我と、不淨を淨と誤る人間の妄見。〕の相より起りて、若干(そこばく)の煩ひあり。求めざらむには如かじ。
243
八つになりし年、父〔兼好の父、卜部兼顯、治部少輔〕に問ひていはく、「佛はいかなるものにか候らむ。」といふ。父がいはく、「佛には人のなりたるなり。」と。また問ふ、「人は何として佛にはなり候やらむ。」と、父また、「佛のをしへによりてなるなり。」とこたふ。また問ふ、「教へ候ひける佛をば、何がをしへ候ひける。」と。また答ふ、「それもまた、さきの佛のをしへによりてなり給ふなり。」と。又問ふ、「その教へはじめ候ひける第一の佛は、いかなる佛にか候ひける。」といふとき、父、「空よりや降りけむ、土よりやわきけむ。」といひて笑ふ。「問ひつめられてえ答へずなり侍りつ。」と諸人(しょにん)にかたりて興じき。
徒然草 終