徒然草: 236-240

236
丹波に出雲〔丹波の地名、そこに同名の國幣中社がある。〕といふ所あり。大社(おほやしろ)〔出雲大社〕を遷して、めでたく造れり。志太の某(なにがし)とかやしる所〔領する所〕なれば、秋の頃、聖海上人〔不明傳(*ママ)〕、その外も人數多誘ひて、「いざたまへ〔さあおいでなさい〕、出雲拜みに。かいもちひ召させむ。」とて、具しもていきたるに、おの拜みて、ゆゝしく信起したり。御前なる獅子狛犬〔社前なる惡魔ばらひの裝飾〕、そむきて後ざまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちやういと珍し。深き故あらむ。」と涙ぐみて、「いかに殿ばら〔皆さん〕、殊勝の事は御覽じとがめずや。無下なり。」といへば、おのあやしみて、「まことに他に異なりけり、都のつと〔土産〕にかたらむ。」などいふに、上人なほゆかしがりて、おとなしく物知りぬべき顔したる神官をよびて、「この御社の獅子の立てられやう、定めてならひあることにはべらむ。ちと承らばや。」といはれければ、「そのことに候。さがなき童(わらはべ)どもの仕りける、奇怪に候ことなり。」とて、さし寄りてすゑ直して往にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。
237
やない筥〔柳の木の三角形の細木を編み合せた筥、後世はその編み合せたものに足をつけた机形〕にすうるものは、縦ざま横ざま、物によるべきにや。「卷物などは縦ざまにおきて、木のあはひより、紙捻(かみひね)り〔かうより〕(*こより)を通して結ひつく。硯も縦ざまにおきたる、筆ころばずよし。」と三條右大臣殿〔不明〕おほせられき。勘解由小路(かでのこうぢ)の家〔藤原行成の子孫で世尊寺と云ふ書道を以て立つた家〕の能書の人々は、假にも縦ざまにおかるゝことなし、必ず横ざまにすゑられ侍りき。
238
御(み)隨身近友〔傳不明〕が自讚〔自分自身をほめる事〕とて、七箇條かきとゞめたる事あり。みな馬藝(ばげい)させることなき事どもなり。その例をおもひて、自讚のこと七つあり。
一、人あまた連れて花見ありきしに、最勝光院〔京都の東の郊外、南禪寺内にあつた寺〕の邊にて、男の馬を走らしむるを見て、「今一度馬を馳するものならば、馬倒(たふ)れて落つべし、しばし見給へ。」とて立ちどまりたるに、また馬を馳す。とゞむる所にて、馬を引きたふして、乘れる人泥土の中にころび入る。その詞のあやまらざることを、人みな感ず。
一、當代〔後醍醐帝〕いまだ坊〔東宮坊、こゝでは皇太子を意味する。〕におはしまししころ、萬里小路殿(までのこうぢどの)御所なりしに、堀河大納言殿〔藤原師信、師繼の子、當時東宮大夫〕伺候し給ひし御(み)曹司〔曹子とも書く、部屋〕へ、用ありて參りたりしに、論語の四五六の卷をくりひろげ給ひて、「たゞ今御所にて、紫の朱(あけ)うばふ事を惡む〔論語に「惡2紫之奪1レ朱也。」小人が賢者を壓倒する喩へ。〕といふ文を、御覽ぜられたき事ありて、御本を御覽ずれども、御覽じ出されぬなり。なほよくひき見よと仰せ事にて、求むるなり。」と仰せらるゝに、「九の卷のそこの程に侍る。」と申したりしかば、「あなうれし。」とて、もてまゐらせ給ひき。かほどの事は、兒どもも常のことなれど、昔の人は、いさゝかの事をもいみじく自讚したるなり。後鳥羽院の御(み)歌に、「袖と袂と一首の中にあしかりなむや。」と、定家卿〔藤原定家、俊成の子、新古今の撰者〕に尋ね仰せられたるに、
秋の野の草のたもとか花すゝきほに出でて招く袖と見ゆらむ〔古今集の在原棟梁の作〕
と侍れば、何事かさふらふべきと申されたることも、「時にあたりて本歌(ほんか)〔典據となる原歌〕を覺悟す〔記憶する〕、道の冥加〔歌道の名譽〕なり、高運なり。」など、ことしく記しおかれ侍るなり。九條相國伊通公の款状〔志願の申文〕にも、ことなる事なき題目をも書きのせて、自讚せられたり。
一、常在光院〔相國寺の末寺、東山附近〕の撞鐘(つきがね)の銘は、在兼卿〔菅原在兼、在嗣の子〕の草〔草稿、草案〕なり。行房朝臣〔藤原行房、行成の子孫、能書家〕清書して、鑄型にうつさせむとせしに、奉行の入道〔鑄鐘を司る僧、人は不明〕かの草をとり出でて見せ侍りしに、「花の外に夕をおくれば聲百里(はくり)に聞ゆ。」といふ句あり。「陽唐の韻と見ゆるに、百里あやまりか〔句の終りの字が平音陽唐の韻で出來てゐるのに里と云ふ仄音紙旨の韻が用ゐてあるから咎めたのだ〕。」と申したりしを、「よくぞ見せ奉りける。おのれが高名なり。」とて、筆者の許へいひやりたるに、「あやまり侍りけり。數行(すかう)となほさるべし。」と返り事はべりき。「數行。」もいかなるべきにか、もし「數歩(すほ)」の意(こゝろ)か、おぼつかなし。
一、人あまた伴ひて、三塔〔比叡山の東塔、西塔、横川を云ふ。〕巡禮の事侍りしに、横川の常行堂(じゃうぎゃうだう)〔常行三昧を修する堂〕の中(うち)、龍華院と書けるふるき額あり。「佐理・行成〔藤原佐理、敦敏の子、能書家、行成は前に出た。〕の間うたがひありて、いまだ決せずと申し傳へたり。」と堂僧ことごとしく申し侍りしを、「行成ならば裏書あるべし。佐理ならば裏書あるべからず。」といひたりしに、裏は塵つもり、蟲の巣にていぶせげなるを、よく掃き拭ひて、おの見侍りしに、行成位署(ゐしょ)〔官位姓名の書いてある事〕名字年號さだかに見え侍りしかば、人みな興に入る。
一、那蘭陀寺にて、道眼ひじり談義せしに、八災〔八つの修行得道の禍ひとなるもの、憂苦、喜樂、尋伺、出息、入息〕といふ事を忘れて、「誰かおぼえ給ふ。」といひしを、所化みな覺えざりしに、局のうちより、「これにや。」といひ出したれば、いみじく感じ侍りき。
一、賢助僧正〔藤原公守の子、醍醐院座主〕に伴ひて、加持香水(かうずゐ)〔眞言宗で行ふ呪法の一、ここでは正月八日から十五日まで行はるゝ宮中の法事〕を見はべりしに、いまだ果てぬほどに、僧正かへりて侍りしに、陣〔宮中眞言院の外陣、護衞兵の居所〕の外(ほか)まで僧都見えず。法師どもをかへして求めさするに、「おなじさまなる大衆(だいしゅ)多くて、えもとめあはず。」といひて、いと久しくて出でたりしを、「あなわびし。それもとめておはせよ。」といはれしに、かへり入りて、やがて〔直に〕具していでぬ。
一、二月(きさらぎ)十五日、月あかき夜(よる)、うち更けて千本の寺〔大報恩寺、前出。〕にまうでて、後(うしろ)より入りて、一人顔深くかくして聽聞し侍りしに、優なる〔優美な〕女の、すがた匂ひ人よりことなるが、わけ入りて膝にゐかかれば、にほひなどもうつるばかりなれば、敏あし〔具合が惡い〕と思ひてすり退き〔外してのく〕たるに、なほ居寄りて、おなじさまなれば立ちぬ。その後、ある御所ざまのふるき女房の、そゞろごと〔雜談〕言はれし序に、「無下に色なき〔色氣のない〕人におはしけりと、見おとし〔輕蔑する〕奉ることなむありし。情なしと恨み奉る人なむある。」と宣ひ出したるに、「更にこそ心得はべらね。」と申して止みぬ。この事後に聞き侍りしは、かの聽聞の夜、御(み)局のうちより、人の御覽じ知りて、さぶらふ女房をつくり立てて、出し給ひて、「便よくば〔都合よくば〕ことばなどかけむものぞ。そのありさま參りて申せ、興あらむ。」とてはかり給ひけるとぞ。
239
八月(はづき)十五日、九月(ながつき)十三日は婁宿(ろうしゅく)〔二十八宿の一、天を二十八に分つたその西方の一を云ふ、毎日を二十八宿に當てはめてある。〕なり。この宿、清明なる故に、月をもてあそぶに良夜とす。
240
しのぶの浦〔岩代信夫郡の濱〕の蜑のみるめ〔海松と布(め)、共に海の植物、しのぶを人目を忍ぶとかけ、之を人の見る目とかけたのだ。〕も所狹く、くらぶの山〔山城の暗部山、暗路とかけた。〕も守る人〔山番の職、戀の番人にかけた。〕しげからむ〔多からうと樹木の茂りにかけた。〕に、わりなく通はむ心の色こそ、淺からずあはれと思ふふしの、忘れがたき事も多からめ。親はらからゆるして、ひたぶるに迎へすゑたらむ、いとまばゆかりぬべし〔心恥しからうといふ意〕。世にありわぶる女の、似げなき老(おい)法師、怪しの東人なりとも、賑ははしきにつきて、「さそふ水あらば〔文屋康秀が小野小町を東國に誘つた時、小町の歌、「わびぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞおもふ」古今集〕。」などいふを、なか人(びと)いづかたも心にくきさまにいひなして、知られずしらぬ〔「うとくなる人を何しに怨むらむ知らず知られぬ折もありしに」新古今集〕人を迎へもて來らむあいなさよ。何事をかうち出づる言の葉にせむ。年月のつらさをも、分けこしは山の〔「筑波山は山しげ山しげけれど思ひ入るにはさはらざりけり」新古今集〕などもあひかたらはむこそ、つきせぬ言の葉にてもあらめ。すべてよその人のとりまかなひたらむ、うたて心づきなき事多かるべし。よき女ならむにつけても、品くだり、みにくく、年も長けなむ男は、「かく怪しき身のために、あたら身をいたづらになさむやは。」と、人も心劣りせられ、わが身はむかひ居たらむも、影はづかしくおぼえなむ、いとこそあいなからめ。梅の花かうばしき夜の朧月にたゝずみ、御垣(みかき)が原〔禁中の御垣附近〕の露分け出でむありあけの空も、わが身ざまに忍ばるべくもなからむ人は、たゞ色好まざらむにはしかじ。