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黑戸〔黑戸御所、清凉殿の北、瀧口の戸の西〕は、小松の御門〔光孝帝、小松の山陵に葬つたからかく云ふ〕位に即かせ給ひて、昔唯人(たゞびと)に坐(おはしま)しし時、まさな事せさせ給ひしを忘れ給はで常に營ませ給ひける間なり。御薪(みかまぎ)に煤けたれば黑戸といふとぞ。
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鎌倉の中書王〔一品中務卿宗尊親王、後嵯峨帝の第一皇子、中書王は中務卿の唐名、鎌倉幕府に將軍として居られた〕にて御(おん)鞠ありけるに、雨ふりて後未だ庭の乾かざりければ、いかゞせむと沙汰ありけるに、佐々木隱岐入道〔政義、義清の子〕、鋸の屑を車に積みておほく奉りたりければ、一庭に敷かれて、泥土のわづらひ無かりけり。「とりためけむ用意ありがたし。」と人感じあへりけり。この事をある者の語り出でたりしに、吉田中納言〔藤原藤房〕の、「乾き砂子の用意やはなかりける。」とのたまひたりしかば、恥しかりき〔作者自身も故實を知らなかつた故〕。いみじと思ひける鋸の屑、賤しく異樣のことなり。庭の儀を奉行する人、乾き砂子をまうくるは、故實なりとぞ。
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ある所の侍(さぶらひ)ども、内侍所〔宮中内侍所、鏡を奉安せる所〕の御(み)神樂を見て人に語るとて、「寶劒〔三種の神器の一なる天叢雲劒〕をばその人ぞ持ち給へる。」などいふを聞きて、内裏なる女房の中に、「別殿の行幸(ぎゃうかう)には、晝御座(ひのござ)の御劒(ぎょけん)にてこそあれ。」と忍びやかにいひたりし、心憎かりき。その人、ふるき典侍なりけるとかや。
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入宋(にっそう)の沙門道眼上人〔傳不詳〕、一切經を持來(ぢらい)して、六波羅のあたり、燒野といふ所に安置して、殊に首楞嚴經(しゅれうごんきゃう)〔一名中印度那蘭陀大道場經〕を講じて、那蘭陀寺と號す。その聖の申されしは、「那蘭陀寺は大門北むきなりと、江帥(かうそち-ママ)〔太宰權帥大江匡房〕の説とていひ傳へたれど、西域(さいゐき)傳〔玄奘が天竺へ行きし紀行文、大唐西域記〕、法顯(ほふけん-ママ)傳〔法顯の天竺へ行きし紀行文(*仏国記)〕などにも見えず、更に所見なし。江帥はいかなる才覺にてか申されけむ、おぼつかなし。唐土の西明寺は北向き勿論なり。」と申しき。
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さぎちやう〔三毬打、正月十五日清凉殿の東庭で青竹を燒く惡魔拂ひの儀式〕は、正月(むつき)に打ちたる毬杖(ぎぢゃう)〔毬打、正月毬を打つ兒童の遊戲具、槌に似たもの〕を、真言院〔大内裏、八書院(*八省院)の北、修法を行ふ道場〕より神泉苑(しんぜんゑん)〔二條の大宮なる池ある庭〕へ出して燒きあぐるなり。法成就〔三毬打の時に唄ふ歌詞〕の池にこそと囃すは、神泉苑の池をいふなり。



