徒然草: 156-160

156
大臣(だいじん)の大饗(だいきゃう)〔任大臣の披露式〕は、さるべき所をまをし受けて行ふ、常のことなり。宇治左大臣殿〔藤原頼長、所謂惡左府、忠實の子、忠通の弟〕は、東三條殿〔二條の南町の西に在る御殿〕にて行はる。内裏にてありけるを申されけるによりて、他所へ行幸ありけり。させる事のよせ〔大した縁續き〕なけれども、女院(にょゐん)〔國母の佛門に入られし尊稱〕の御所など借り申す故實なりとぞ。
157
筆をとれば物書かれ、樂器(がくき)をとれば音(ね)をたてむと思ふ。杯をとれば酒を思ひ、賽をとれば攤(だ)〔支那で博奕の事を云ふ、攤錢〕うたむ事を思ふ。心は必ず事に觸れて來(きた)る。假にも不善のたはぶれをなすべからず。あからさまに聖教の一句を見れば、何となく前後の文(ふみ)も見ゆ。卒爾(*ママ)にして多年の非を改むる事もあり。假に今この文をひろげざらましかば、この事を知らむや。これすなはち觸るゝ所の益なり。心更に起らずとも、佛前にありて數珠(ずゞ)を取り經を取らば、怠るうちにも善業(ぜんごふ)〔美果を得べき美しき業因、業は因果の關係の働き〕おのづから修せられ、散亂の心ながらも繩床(じょうしゃう)〔繩を張つた椅子、座禪工夫の座〕に坐せば、おぼえずして禪定〔無我の境に入る事、禪三昧に入る事〕なるべし。事理〔事は外にあらはれた所作、理は心の内の所作、現象と實在〕もとより二つならず、外相(げさう)〔外に現はれたすがた、現象〕若し背かざれば、内證〔心内の妙悟〕かならず熟す。強ひて不信といふべからず。仰(あふ)ぎてこれを尊(たふと)むべし。
158
「杯の底を捨つることはいかゞ心得たる。」とある人の尋ねさせ給ひしに、「凝當(ぎょうたう)〔凝當と魚道と似た發音なので、兼好が間違へて居たのである〕と申し侍れば、底に凝りたるを捨つるにや候らむ。」と申し侍りしかば、「さにはあらず、魚道(ぎょだう)なり。流れを殘して口のつきたる所をすゝぐなり。」とぞ仰せられし。
159
「みなむすび〔紐の結び方、表袴(*うへのはかま)袈裟などに用ゐる飾り〕といふは、絲をむすびかさねたるが、蜷(みな)といふ貝に似たればいふ。」と或やんごとなき人、仰せられき。「にな」といふは誤りなり。
160
「門に額かくるを、「うつ」といふはよからぬにや。勘解由小路(かでのこうぢ)二品禪門〔世尊寺行忠、行尹の子〕は、「額かくる」とのたまひき。見物の「棧敷うつ」もよからぬにや。「平張〔日蔽ひのため上に平に張る幕〕うつ」などは常の事なり。棧敷構ふるなどいふべし。「護摩たく」といふもわろし。「修(しう)する」「護摩する」などいふなり。「行法(ぎゃうぼふ)」も、「法」の字を清みていふ、わろし、濁りていふ。」と清閑寺(せいがんじ)僧正〔東山にあり、清閑寺の道我僧正〕仰せられき。常にいふ事にかゝることのみ多し。