徒然草: 046-050

46
柳原〔今京都上京區柳原〕の邊(ほとり)に、強盜(がうだう)(*原文「がうたう」)法印〔僧位の一、法印、法眼、法橋。〕と號する僧ありけり。度々強盜にあひたる故に、この名をつけにけるとぞ。
47
ある人清水へまゐりけるに、老いたる尼の行きつれたりけるが、道すがら、「嚔(くさめ)嚔」といひもて行きたれば、「尼御前(ごぜ)何事をかくは宣ふぞ。」と問ひけれども、答へもせず、猶いひ止まざりけるを、度々とはれて、うち腹だちて、「やゝ、嚔(はな)ひたる〔くさめする〕時、かく呪(まじな)はねば死ぬるなりと申せば、養ひ君の、比叡の山に兒にておはしますが、たゞ今もや嚔ひ給はむと思へば、かく申すぞかし。」といひけり。あり難き志なりけむかし。
48
光親卿〔權中納言藤原光親、光雅の子〕、院〔後鳥羽上皇〕の最勝講奉行〔最勝講は前出、最勝講の事務をとり行ふ人〕してさぶらひけるを、御前へ召されて、供御〔天皇などの御膳部〕をいだされて食はせられけり。もの食ひ散らしたる衝重(ついがさね)〔白木づくりの三方〕を、御簾の中へさし入れてまかり出でにけり。女房、「あな汚な。誰に取れとてか。」など申しあはれければ、「有職のふるまひ〔かゝる時には公事が多忙なので、有職の心得ある者が臨機の處置をとつたのである。〕、やんごとなき事なり。」とかへす感ぜさせ給ひけるとぞ。
49
老來りて始めて道を行ぜむと待つ事勿れ。古き墳(つか)多くはこれ少年の人なり〔「莫下待2老來1方學上レ道、古墳盡是少年人」と云へる古句〕。はからざるに病をうけて、忽ちにこの世を去らむとする時にこそ、はじめて過ぎぬる方のあやまれる事は知らるれ。あやまりといふは他の事にあらず、速かにすべき事をゆるくし、ゆるくすべきことを急ぎて過ぎにしことのくやしきなり。その時悔ゆとも甲斐あらむや。人はたゞ無常の身に迫りぬる事を心にひしとかけて、つかの間も忘るまじきなり。さらばなどか此の世の濁りもうすく、佛道を勤むる心もまめやかならざらむ。昔ありける聖は、人のきたりて自他の要事をいふとき、答へていはく、「今火急の事ありて、既に朝夕にせまれり。」とて、耳をふたぎて念佛して、終に往生を遂げたりと、禪林の十因〔東山永觀堂を禪林寺と云ふ、その永觀律師の作つた往生十因をいふ。〕にはべり。心戒といひける聖は、餘りにこの世のかりそめなることを思ひて、靜かについゐける事だになく、常はうづくまりてのみぞありける。
50
應長〔花園帝の御代、一年だけ。〕のころ、伊勢の國より、女の鬼になりたるを率て上りたりといふ事ありて、その頃二十日ばかり、日ごとに京白川の人、鬼見にとて出で惑ふ。「昨日は西園寺〔當時の藤原實兼の邸〕に參りたりし、今日は院〔上皇の御所、後宇多院〕へまゐるべし。たゞ今はそこに〔どこそこに〕。」など云ひあへり。まさしく見たりといふ人もなく、虚言(そらごと)といふ人もなし。上下(かみしも)たゞ鬼の事のみいひやまず。その頃東山より、安居院(あぐゐ)〔山城愛宕郡の寺名、比叡山東塔竹林院の里坊であつた。〕の邊へまかり侍りしに、四條より上ざまの人、みな北をさして走る。「一條室町に鬼あり。」とのゝしりあへり、今出川〔一條東洞院邊を北から南へ流れた川〕の邊より見やれば、院の御棧敷〔一條大路に加茂祭御見物のためありし棧敷。〕のあたり、更に通り得べうもあらず立ちこみたり。はやく跡なき〔もとより無根〕事にはあらざんめりとて、人をやりて見するに、大方あへるものなし。暮るゝまでかく立ちさわぎて、はては鬭諍おこりて、あさましきことどもありけり。そのころおしなべて、二日三日人のわづらふこと侍りしをぞ、「かの鬼の虚言は、この兆(しるし)を示すなりけり。」といふ人も侍りし。